2019年11月08日

The Fortune-Teller's Son - Angela Blondeau

 2017年に英語で書かれた本だが、それほど難しい単語はなく、日本語話者にもおすすめ。また内容が数奇な運命に翻弄された少年マサイアス(前半の主人公)と、その息子であり、事情で幼少時にアメリカに移民した少年オットー(後半の主人公)の物語を実話ベースに再現した読みものであり、感情移入がしやすい構成になっている。著者はオットー・リーガン氏の知己で、本の中に当時の写真なども紹介。

 

 1900年代はじめ、モドラ(現在のスロバキアの都市)で暮らしていたリーガン家の人びとは、アメリカへの移住を予定していた。すでにアメリカに渡って仕事を得ている親戚と、上の息子たちは現地で生活基盤を整えており、残る家族も全員アメリカへという話になったのだ。
 ところが直前になって、渡航費用がひとり分だけ不足していることが発覚。一家の妻が自分と娘たちのために記念の品を買ってしまったためだ。彼女がその誘惑にさえ負けなければ、話はまったく違った展開になっていた。
 そして渡航費用の関係で、たったひとり、体に障害を持つ14歳の少年マサイアスが、アメリカ行きをいったん断念せざるを得なくなる。親戚の助けを得て引っ越したウィーンで、仲良しの猿ムッキを使った芸と占いを披露するようになったマサイアスは、たくましく成長していった。
 数年後に父親がアメリカから迎えにやって来て、ようやく自分も渡航できることになったマサイアスだが、皮肉な運命で、アメリカでは方針が変更されてしまい、障害者を受け入れないと告げられる。現地で足を踏み入れることなく、ウィーンに帰ってきたマサイアス。
 彼はムッキと町の広場で芸を見せ、ふたたび現地に馴染むが、彼がアメリカに縁のある人間と知り興味を持って近づいてきた女性と、結婚することになる。幸せな生活を営めるかと思った矢先、その女性はふたりのあいだに息子オットーを授かるとまもなく、アメリカに稼ぎに行くと語り、オットーを残して渡米してしまう。

 そして、オットーが6歳のとき、母親の勤め先の縁で移民手続きの話が進み、オットーにだけ迎えがやってくる。こうして仲のよかった父と息子は、海を越えて離ればなれになった。いつか再会をと願いアメリカで成人したオットーだったが、やがて世の中は第二次大戦に突入して…

 マサイアスとオットーが別れるころ(本の中間部分)までは、とても興味を持ってページを読みすすめたのだが、オットーがアメリカに渡ってのち、もうおそらくマサイアスとは会えないのだろうと思ったら、読むのがおっくうになってしまった。そしてそこから1年以上も放置してしまったのだが、最近になってそれはあまりにもったいないことだろうと、思い直した。そこでKindleを英語で読み上げてもらう設定にし、中央から最終部近くのまでを音声で聞きながら、ときおり画面で文字を追うようにして、読み終えた。

 ようやく近年になって、マサイアスのその後を知ることができたラストは、よかった。

 アメリカに渡ってから成人するまでは、オットーは生活の面では実母の影響下にあったが、周囲には上流階級の人たちがいて、観劇に連れていってもらうなど可愛がられた。そして空軍に進み、その後は事業をおこない、この本が出版された2017年のころは95歳でご存命とのことだった。

 著者が主人公と知己であること、また、ご本人が存命であることとで、前半に出てくるような人の身勝手な部分や、つらさのようなものが、後半にはあまり描かれていないように感じた。やはり書きづらいことがあるのかもしれない。

 英語の文章を楽しく読み慣れておきたいという人がいらっしゃれば、前半だけでも、おすすめしたい。

 最後になるが、わたしがこの本をKindleでダウンロードしたのは、ちょっとした縁だった。Amazon.co.jpのサイトで、検索欄にたったひと言 Vienna (ウィーン)と入力したところ、これが出てきたのだ。こういう縁で本を読むこともあるのだと、あのときその検索をしなければ出会わなかったのだと、その偶然を気に入っている。
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2016年02月07日

宮廷料理人アントナン・カレーム - イアン・ケリー著/村上 彩訳

 セーヌ左岸の掘っ立て小屋で、貧乏な家に25人兄弟の16番目として生を受けたアントナン・カレームは、およそ10歳のころ、文字通り親に捨てられる。

 雑踏に彼を置き去りにした父親は「根性さえあれば、運をつかんで出世できる」という無責任な言葉を投げかけたとされるが、実際に息子はたくましく生き延び、菓子職人そして料理人としての名声でパリの頂点に立った。政権が交代しても権力の座に居座った美食家タレーランに重用されたおかげでその名はヨーロッパ諸国にもとどろき、ロシアの宮廷やイギリスの王室に招かれて腕をふるった。



 だが彼は金よりも名声よりもパリを愛した。現役からしりぞいても自分の存在した証が長くつづくことを望んで、後年は執筆活動に多くの時間と労力を費やすようになる。誘いを受けてもパリを離れたがらず、やがてコレラの蔓延したパリを嫌って周囲の人の足が遠のいても執筆をつづけ、体調を悪化させていった。体調不良の原因のひとつは、換気がじゅうぶんではなく熱源が木炭であった当時の厨房の環境に、長くひたりすぎたためと推測される。

 娘に看とられての最期だったが、ある理由により娘は彼の生前の手紙類をほぼすべて処分した。墓の所在すら、長いこと人に知られないままだった。そのせいかどうか、料理界に与えた影響や残した書物に比較して、人物としてのアントナンが語り継がれることはさほどないように思う。

 本名をマリー・アントワーヌ・カレームという。男性であるが、政治的判断力がない父親により、世の人々が王室に愛着や忠誠の心を持たない時期にマリー・アントワネットにちなんだ名前が付けられたためと言われる。本人は「アントナン」という名を好んで使っていた。

 スラムの生まれでも独学で読み書きを学び、仕事のあいまに図書館に通って菓子や料理のみならず古代建築の本を読みあさった。彼の死後も百年近く残っていたものがあると言われるピエスモンテ(飴細工などを使った食品が原料の工芸菓子)の技術も、そうした勉強と努力の産物だろう。

 文中には歴史的な日に彼が用意した料理のメニュー紹介があり、巻末にはレシピがまとめられている。

 欲をいえばもう少し人物像を掘りさげてあればと思うが、日本語での類書がほとんどない状況なので、この本の存在は貴重と考える。
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2015年12月09日

ミツコと七人の子供たち - シュミット村木眞寿美

 わたしがクーデンホーフ光子(青山みつ)について本を少なからず読むようになったのは、何年くらい前だっただろうか。この本の著者シュミット村木眞寿美氏のものは、これで二冊目だったと記憶している。もとはといえば70年代に大和和紀のコミックでレディー・ミツコという作品があり、日本からヨーロッパに渡った女性の存在だけは、ずっと気になっていた。

 活字としてまとまった形で読んだのは中でも定番とされている「クーデンホーフ光子伝」が最初だったと思うが、これに不満があった。そのため、ほかに本はないかと、何年もずっと読む機会を狙っては、ときには積ん読し、ときには貪るように読みながら、現在にいたる。そして今回の「ミツコと七人の子供たち」は、書名から受ける軽い印象とは異なり、もっとも重く、もっともわたしの思いをかき立てるものとなった。

 最初に読んだ定番の「クーデンホーフ光子伝」において何が不満だったかというと、視点がかなり偏っていて、日本から出てヨーロッパに渡った女性が汎ヨーロッパ主義の(思想面での)礎となったという、その点に話題を集結させようという意図があまりに強かったためだ。最後のほうは多くのページを割いて汎ヨーロッパ主義を説いた次男リヒャルトの記録や物語となっていた。わたしにしてみれば、冒頭でさらりと1回のみ語られた「日本から同行した乳母ら」がどうなったのか、何年くらい経過してからミツコは周囲に日本人のいない環境でさみしさを感じていたかなど、そういった“普通の人が疑問に思いそうなこと”の欠如に耐えられなかった。



 シュミット村木眞寿美氏の作品「クーデンホーフ光子の手記」は、ミツコが夫の死後に思い立ち、子供たちに父と自分の話を伝えるため思い出話を(娘らの力を借りて)口述筆記した手記を著者が発見、図書館で音読し、録音して持ち帰ったものを編集して日本語訳にしたものだった。ミツコが語りたい美しい思い出にあふれ、つらかったであろうことや、東京の親族と夫のあいだにあったであろう確執や金銭のやりとりは、まったく残されていない。そして本作において、著者はミツコや子供たちが存命であったときを知る老人たちに取材した模様、日本に残る縁者の方との出会いと交流、ミツコの最愛の夫にずっと仕えていたアルメニア人の従僕バービックの孫との対面など、さまざまな角度からミツコの晩年や子供たちの(多くの場合はつらく悲しい)運命について、克明に、あるときは残酷なでに綴っていく。

 著者の本をこうして二冊読んでみて、そして、わたしは労せずに読んでいる立場であっても、ミツコに関してわたしや著者を動かしている思いは通じるところがあるのではないかと考えるようになった。一読者であるわたしがこれを書くのは、たいへん失礼なことであるかもしれない。著者はわたしと同様「普通の人が異国の地で、身分も違う慣れない立場で、現地にひとりぼっちだったらどんな暮らしをしていたのだろう」という純粋な思いが最初はあったのだろう。そうするうちに本人の思いに踏みこまず状況の判断から「こうであったに違いない」と決めつける他書の見解などを見るに付け、自分がもっと知りたい、自分がもっと掘り下げたい、そして自分のような考えの人にその掘り下げたものを見てもらいたい−−そうした強い思いに駆られて書きつづけた二冊だったのではと、思わずにいられない。

 著者が自分の娘たち(ドイツ語ネイティブ)に資料の判読と整理を頼んで、あげくに投げ出された描写が興味深かった。ミツコが晩年になって極端な国粋主義に走ったであろう時期(日本に帰れないことは若いうちから覚悟していたものの、齢を重ねて「自分の故郷は素晴らしかった」と美化するあまりに、自分の子供たちから話も聞いてもらえなくなったであろうころ)の文章で、著者の娘らはミツコの子供たちと同様に「もう、やらない」とうんざりし、拒絶したということだった。自身も母である著者は、ミツコが大昔の日本しか知らずにいても極端に自慢してしまう、美化しすぎて凝り固まったことを言ってしまう気持ちが理解できる気がしており、さみしさやいろいろな要因から文章や態度に出てしまったのであろうと推測したが、自身の娘らには、それが通じなかったとのこと。

 長く外国に暮らす著者自身の環境や、母であることなどが、著者とミツコをつなげているのかもしれない。それを考えてもなお、やはりすさまじいまでの集中力と行動力である。もし今後も著作があるのであれば、そのときはぜひ拝読したいと思っている。
posted by mikimarche at 22:55| Comment(0) | 人物伝

2012年12月28日

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか - 岡田 芳郎

 1976年10月に発生した酒田市の大火災から本書ははじまる。負傷者1003名、死者1名を出したその火事の原因は、本書の題材のうちいっぽうである世界一の映画館「グリーンハウス」の漏電と推定されている。輝かしい姿と人々の思い出は炎になめつくされ、結果として佐藤久一という人物を懐かしく語ることに、ある種の封印をする一因となった。

 本書は、輝いていた映画館と一流のフランス料理店を手がけた男性、佐藤久一の物語だ。



 グリーンハウスは佐藤久一が大学を中退してすぐに支配人を務めた映画館で、もともとはダンスホールであった場所を父親が買収したものだ。なんの変哲もない場所だったが、彼は次々と斬新なアイディアを出して一流の社交場に変え、市内や近郊の人々はお洒落をして出かけたいと思う場所に育てあげた。

 上映作品の選び方や実際の配給も東京の有楽町と遜色なく、映画館の雰囲気や機材のすばらしさもあって、淀川長治や荻昌弘にも知られた存在だった。

 いったんは坂田を去り、東京で劇場に勤めた佐藤だったが、ふとしたことから食材の仕入れ部署をまかされる。そのとき、どの映画作品を自分の映画館に買い付けるかを考えていた時期の楽しみとそれがまったく重なることに気づいた。同時に、食材を集めても最後までの責任(調理や給仕)に関与できないことに物足りなさも感じていた。

 そんなとき、坂田にいる父親からフランス料理店を出さないかと声をかけられ、周囲に声をかけて(人材を引き抜いて)故郷にもどる。そこで彼はまず「欅(けやき)」、そしてのちに、本書の題材のもういっぽうである「ル・ポットフー」に心身を捧げることとなる。

…ひと息に読んだ。

何と愛すべき人物像だろう。関係者や直近の人間にとっては、ときとして困る状況になったことは想像に難くないが、天才と呼ばれる人、後世に名を残した人の何割かは、そうしたものだろうと思う。

あとがきによると、著者は定年後に姉の知人(佐藤久一の妹)から話を聞かされ、数年かけて取材活動をおこなった。よくぞ掘り起こしてくれたと、お礼を言いたい。
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2008年03月09日

あの日、鬼平先生は何を食べたか 池波正太郎フランス旅日記 - 佐藤隆介

 著者の佐藤隆介が、池波正太郎の書生として昭和五十年代にフランス各地を旅行した際の記録。その手記は長年にわたり紛失の状態にあったが、最近になって控えが見つかり新書として出版の運びとなった。4回の旅行に同行し、このような形での記録は3回分があるそうだが、新書の枚数の関係上、この本には2回分が収録された。



 あとがきによると、本文にはあまり手を加えていないそうである。そのかわり宿やワイン、料理などの脚注を足す形で読みやすくした。

 本文には殿様(池波)に随行する三太夫(著者)といった表現がしばしば出てくる。三太夫とは、デジタル大辞泉によれば「もと、華族や金持ちの家で、家事や会計をまかされていた家令・執事などの俗称」であり、言い得て妙。クレジットカードがいまほど一般的でなく共通通貨のユーロもない当時、フランスやベルギーなど別の国にはいるたびに所持していた現金を現地通貨に変え、その国で立派に使い切って日本に帰ってきた御一行だが、よくも紛失や盗難、はたまた物騒な事態に遭遇せずに済んだものだと、胸をなで下ろした。

 見たもの、寄った店、食べたもの(メニューと合計金額)、泊まった宿でのエピソードや支払総額などが、淡々とつづられていく。

 旅はもっぱらレンタカーで、カメラマンを兼ねた運転手役の人に数日早く現地入りしてもらい、クルマの手配や現地に慣れておいてもらう。数ヶ月前から郵便などを通じて予約しておいた宿とその道中の観光地をまわる、といったスタイルだ。読み書きほどにはフランス語の会話を得意としない著者が、宿に到着するとまず食事のメニューを借りて熟読し、全員で事前に注文を決めておいたため、食事の失敗や苦労もなく済んだ。

 気に入った店をふたたび訪れて主人や従業員に以前の写真や著書を渡すなど、いかにも池波氏らしい気配りや、人柄を偲ばせるエピソードが出てくる。

 池波氏の本を読んだことがない人にも、食べものの話が出てくる旅行記としておすすめ。
posted by mikimarche at 19:20| Comment(0) | 人物伝