実は、時間がかかった。前半はともかくとして中盤で気分が悪くなり、2月に読みはじめてから半年以上も、読むのをやめてしまった。だが勇気をふるって最後までたどりつき、なかなか素晴らしい本と思いつつも、あとがきで著者みずからの経験を読んで、ふたたび打ちのめされた。
年齢や性別を問わず、いやあえて言うならば中高年以上の男性にはとくに、読んでもらいたいと考える本だ。
痴漢は許されない犯罪である。だが日本では80年代〜90年代はとくにだが、まるで男性の興奮のネタのように週刊誌に面白おかしく特集が組まれ、痴漢(しやすい)スポットや体験などが載っていた。なかには女性らに体験を語らせる企画もあった。それは被害者目線ではなく特集の趣旨にあった内容だった。著者も具体例や引用を多く書いていて、わたしはそのあたりで気分が悪くなってしまったのだが、その原因は、内容だけではない。
60年代中盤生まれのわたしは、記憶しているのだ−−そういった雑誌や、おもしろおかしく語る風潮が実在したことを。そして多感な時期から20代が終わるころまで「なぜこんな二重世界(一部にとっておもしろおかしい、逆の側にとっては苦痛でしかない)が存在するのだろう」と、ずっと考えていた。
それが「馴らされてしまっている」ということなのだと、30代になったあたりから、ぼんやりと感じられるようになって、無力感につつまれた。
たとえば、社会の多くが、具体的かつ深刻な性犯罪でもなく「さわられたくらいで」と思っていれば、言うだけ損という感覚、しかも「いちいち言えば好奇の目にさらされるのだ」という具体例が、当時に若かった人たちならば、やまほど思い浮かぶのだ。いまもあまり変わっていないかもしれないが、当時はもう、ほんとうにひどかった。
さらに、怒ったところで「女性がへたに騒いでも、初犯の出来心かもしれないのに相手の家族(女性も含む)が、泣いていいの?」という、妙な理屈も頻繁に登場。言葉を発するほうは、なんらかの言葉を使って被害を表沙汰にしないであげてほしいという程度からこねくりだした表現かもしれないが、言われる被害者側のほうには、ずっとこの概念が、普段の暮らしにまで刷りこまれてしまう。次も、また次も。そして長く苦しんだあとに「ここまで我慢したのならなぜ最初に騒がなかったのかと、きっと言われる」と、自分で自分をさらに縛る人も出てくる。
実際問題として、相手(加害者)に気を遣う必要はない。初犯かもしれないと大目に見るのは、自分の次の段階(たとえば警察や検察などの公的存在)が考えればいいのであって、実際に初犯なのか出来心なのかを被害者が考えてやる必要はない。ついでに言えば、出来心とは、ふざけた表現である。
自分がされたことは、事実として記録に残す。その先のことで誰かが(たとえば加害者の家族が)傷つくかどうかは、傷つかないように情報管理を徹底させるなど、被害者以外が真剣に考慮し努力すべきであって、被害者はただ、自分に正直にあるべきだ。公にしたければする。それは被害者にまかされている。
以上は、本を読んでの感想であり、わたしの言葉だが、ぜひ、内容がつらくても、読み終える人たちがいることを願っている。
データは雄弁に語る。章ごとに羅列されている参考資料の数は、類書などにくらべて、かなり多かったと書き添えておく。