2012年06月05日

東京の台所・北京の台所 - ウー・ウェン

 中国の家庭料理では定評のあるウー・ウェンさんの自伝的エッセイ。著作はまだそれほどの数を読んでいないが、ときどきテレビでお見かけする際は、笑顔がたいへん印象的だ。



 読みはじめて驚いたのだが、以前に読んで感銘を受けた「安閑園の食卓」の著者(辛永清さん)と同様、料理研究家になろうと目指していたわけではなく、たまたま腕をふるう機会が重なるうちにそれが本業になったということだった。

 幼少時の愛情に満ちた家庭から話はつづられていく。ご両親は気象の仕事をされていたため、60年代後半から約10年のあいだ吹き荒れた文化大革命では(知的職業の都会人ということで)悪者扱いされ、家族は分散して田舎暮らしを強いられたという。父親のみ北京に残って、たまの休日には片道6時間かけて自転車で会いに来てくれた。

 話の時期は前後するが、やさしかった祖父母の家には紅衛兵が踏みこんだ。滞在していた幼い著者をかばった祖母は心身ともに傷ついて、その後は健康を回復することないままに他界した。

 受験勉強をし、大学は英文科にはいった。外国に出たいという強い思いがあったが、ようやくつかんだ留学の好機は、渡航を待つばかりだった時期の天安門事件のため、中国と距離をおくことになったカナダが査証を出すどころの話ではなかった。

 それでも外国に行きたかった。強い思いが周囲を動かし、勤め先が日本のデパートの事務を担っていたため、推薦状を得ることができた。

 そして著者は日本にやってきた。1990年のことだ。それ以前に面識があった日本人の男性に再会し、二年後に結婚した。

 …このあたりまでが、ほぼ前半である。著者は年齢が少しだけわたしより上だが、自分が平穏な子供時代を送っていたころ、同じアジアの国でこれほどつらいことを経験されたのだということに、心をえぐられる思いがした。それでも明るい。レシピを見るだけでも伝わってくる思いやりと愛情の裏側に、これほどの経験があったとは、想像もしていなかった。

 ご結婚されてからの話や、ところどころに出てくる料理レシピ(巻末にもまとめがある)、中国と日本の食材の違いや食べ方についてなども、もちろん楽しい。

 この本の出版後、残念ながらご主人は他界された。30歳近くも年上で、包容力のあるおおらかな方だったことがうかがえる。お会いしたこともないのに、その情報に触れたときには寂しさを覚えた。
posted by mikimarche at 23:20| Comment(0) | エッセイ

カップヌードルをぶっつぶせ! - 安藤 宏基

 何を隠そう、わたしはカップ麺フリークである。昔からこれはやめられない。最近は昼食に(ゆで野菜などを添えて)食べることが多いが、日清食品はもっとも好きなメーカー。

 カップヌードルは常備に近い状態、そして「どん兵衛」は西日本販売の(w)マークのものを、箱で買った時期もある。マルちゃんもそうだが、カップ麺の(w)マーク商品は関東でも売ってほしいと切に願う。

 元をただせばおそらく、子供のころに食べた袋麺の「出前一丁」あたりで体に刷りこまれたのだろうが、出前一丁の日清、チャルメラの明星、それからマルちゃん(東洋水産)が、わたしの中で不動の上位ランキングだ。

 さて、本書である。



 日清食品の創業者である安藤百福さんの次男で、現在は日清食品ホールディングスCEOの安藤宏喜氏が、主として入社後を中心に半生をふり返る。

 2007年に96歳で亡くなられた創業者は、その半年前まで会社について著者と議論するほど会社に心血を注いでいた。ところが二代目は社長就任時に社員らに対し、その創業者が会社の立場を不動のものとした二本柱(いっぽうはチキンラーメン)であるカップヌードルを、「ぶっつぶす」ことを厭わぬ思いでほかの商品もがんばって開発してほしい、打倒カップヌードルだと号令をかけたものだから、創業者はご機嫌斜めになることが多く、大きな衝突もたびたびあったという。

 人前で会長と社長(実の親子)が喧嘩をするわけにもいかないので、社内でも数人の人間以外にはうまくいっているように見せていたというが、親子だけに言葉に遠慮がなく、激しい喧嘩であったことが文章からうかがわれる。

 戦争や大きな災害など、社会に大きな変化があったときは世の中のニーズを肌で感じとった創業者。メリヤス貿易、養蚕、炭焼き、組み立て式住宅の供給など、さまざまな事業を手がけ、栄養失調の人が多ければ栄養科学研究所を設立した。だが人に頼まれて名前を貸した理事職で財産を失うこともあれば、日清食品を起こしてからもインスタントライスの部門で大赤字を出したこともあったという。それらをすべて、家族である著者は見てきた。二の轍を踏ませまいとする親、守りにだけはいっては発展がないと考える子。そのせめぎ合いは読んでいて迫力がある。

 日清食品内の他商品を脅かしてもかまわない、ブランド同士で競争をすべきだと、二代目はBM(ブランドマネージャー)の制度を確立し、大いに競わせた。損失が出たら会議で「誰それが何千万の責任、誰それが何百万」と決め、実際にその金額を払わせるわけではないが、持ち歩いていたザウルス(PDA)にその金額を入力した。当人らも「おれは何億の赤」と社内で話をすることがあったという。BM制度は、和気あいあいでもギクシャクでもない、ちょうどよい緊張感と競争心をもたらす改革となった。

 創業者はライスで大きな赤を出したというが、著者はこの本が文庫化される以前の段階から、ライスをいつか成功させるという執念を持っていた。そして2009年ころから「GoFan」(水を注いでレンジで仕上げる)というものが商品化され、2010年からは近畿地方でお試し発売をしたら売れすぎていつまでたっても関東に進出できない「カップヌードルごはん」も登場している。創業者の無念が、いま晴らされようとしているように思う。

 そういえば2010年春に、安藤百福の生誕百年ということで「百福麺」という期間限定カップ麺が二種類発売されたが、鴨だし蕎麦のほうがとくに美味で、期間限定ではもったいないと感じた。名目はなんでもいいので、またお祭り的に何か美味しい麺を出していただきたいものだ。
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外交官のア・ラ・カルト - 近藤誠一

 2006年からのユネスコ大使、それにつづくデンマーク大使を経て長い外交官生活を終え、2010年から文化庁長官となっている著者。本書は2006年からの約4年間、月刊誌に食と外交をテーマに寄稿したエッセイ45本をまとめたもの。



 エスプリの利いた粋な文体で、一般市民にはなじみのない外交舞台の裏話をまじえつつ綴られる現地の食材や食文化。読み物としてはたいへんおもしろい。ただ、食材や食文化にのみ強い関心のある人には、とてつもなく珍しい話が出てくるわけではないが、全体の雰囲気としては満足のいくものと思う。

 フランスで鯛の塩焼きをメニューに見つけ、うっかり「丸のまま」と指定するのを忘れたため皮もエンガワも内臓もないものが出てきてしまった話(P.88)は、思わず笑ってしまったが、話はそこで終わらない。

 裏側まで皮をとっていないはずだと背骨を外し、喜んで皮を口に入れてみた著者だが、フランスの料理人は、客が食べると思っていない皮から、鱗をとってくれているはずがなかった−−。ここまででもじゅうぶんに楽しいが、いきなり話は岡山の民話に飛ぶ。それもまた楽しい。

 人生は、たいていのことは努力と学習で補えると思うが、ほんとうに教養のある人、上流の世界が身についている人というのは、存在する。嫌味な意味ではなく、著者の文体からはそういった香りを感じとることができて、読んでいるとおしゃれな気分になれた。
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2008年06月13日

帝国ホテル厨房物語 - 村上信夫

 長年フランス料理の世界で第一線で活躍しながらも、テレビ番組を通じて家庭向けの洋食を広めることにも貢献した著者。この本は、日本経済新聞の紙上に各界有名人が1ヶ月で集中連載する「私の履歴書」に基づくものであり、大幅な加筆の上で出版されたものだそうだ。



 関東大震災の当時2歳であったため実際の記憶はないようだが、被災しなければ著者の父もまた洋食の店を持っていたとのこと。

 店の再建よりも、親戚のつてで借地に家を建てアパート業をはじめた一家は数年のあいだ裕福な暮らしをし、著者は界隈では大家のところの悪ガキとして知られた存在だった。その状況もまた恐慌で一変し、著者は小学校卒業を待たずに(卒業式には出たが出席が足りないなどの事情で証書をもらえず)、珈琲ショップで菓子づくりの下働きをはじめた。

 その後、その店の調理場を経て、紹介状なしでは応募すらできなかった帝国ホテルの厨房を目指すが、道のりは長いものと思われた。チャンスを待つ人が多いのに退職者は少なく、欠員募集自体がほとんどなかったためだ。だが帝国ホテルに呼ばれるまでのあいだをつなぐつもりだった修業先の店が、同ホテルに買収されるという好機が訪れる。

 そして従軍や負傷、自分が間に合わなかったために代わって船に乗った仲間の死、シベリア抑留を経て著者は日本にもどる。いつかは帝国ホテルの厨房にもどりたいと思いながら職探しをしていると、おどろくほど順調に、約二ヶ月で再就職をすることができた。

 苦労話も出るには出てくるが、晩年になってから人生をふり返るとき、人はそういったことを大げさには書かないものなのだろう。うっかりすると何もかも順風満帆であったかのような、軽い読み物を読んでいるような錯覚をおぼえる。

 ソースの味を学びたくても、鍋を洗う人間(下っ端)には、水と塩(もしくは洗剤)などを入れた状態で鍋を突き出す先輩がほとんどだった。ようやく努力が認められたころ、底に少しソースの残った鍋が無言で渡された。そして出征を前に、何人かの先輩たちがレシピを伝授してくれた。伝授された料理人のうち何割もが帰らぬ人となったが、著者は生還し、厨房にもどってくることができた。

 多くの運命が複雑に絡みあった時代の編み目にからめとられることなく、著者は料理の生涯を生きぬいた。戦争がなければ、同じように料理人生を送れるはずだった人たちもいたことだろう。けして自分だけが秀でていたなどとは書かず、正直に過去をつづっていくところに、人柄を感じる。

 スウェーデンの料理「スモーガスボード」を帝国ホテルで「バイキング料理」としてスタートさせたこと(ネーミングは社内公募)や、東京オリンピックの選手村で料理の指揮をとるなどの活躍は、よく知られている。

 晩年は一料理人として小さな店を持つ計画もあったそうだが、ホテルに顧問としてとどまり、店の計画は人にゆずったのだそうだ。最後まで料理一筋の人だった。
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2008年05月15日

あの日、あの味 「食の記憶」でたどる昭和史 - 月刊『望星』編集部

 月刊誌「望星」の連載コラムに登場した66人のエッセイを年代順に編集して一冊にまとめたもの。



 章は、以下のような構成になっている。
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昭和元年〜20年、「食うこと」が大変な時代があった
昭和20年〜30年、復興を支えたそれぞれの食事情
昭和30年〜40年、「生活」が変わったあの時期に……
昭和40年〜64年、豊かな国の「表」と「裏」で
忘れられない"異文化の味"
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 ひとつの卵を3人兄弟で分け合ってご飯にかけた時代がある。闇市で買ったおでんの具にあたり、それがきっかけで生涯の伴侶を得た人もいる。初めて箱入りの大きなマーガリンを味わった少女は、好きな男の子に好物を聞かれ、雪印ネオマーガリンと答える。相手の親に反対されながらもどうにか結婚した直後、あらぬ疑いで12日間留置された男性に、新妻は毎日弁当を二度差し入れる。

 66人の食、記憶、それぞれの昭和が、さらりとつづられていく。文字にすれば短いが、行間ににじむ思いは重くて深い。
posted by mikimarche at 23:05| Comment(0) | エッセイ