2017年11月17日

ジョブズの料理人 - 日経BP社出版局(編集) (著) / ‎ 佐久間俊雄(取材協力)

 序文と前半のごく一部を読んだまま、忘れて積んでいた。何年くらい経ったのか、昨日ちょっとした積み替え作業のとき上のほうに出てきたのでパラパラとめくるうち、半日で読み終えてしまった。題材も興味深く、内容もまたつまらない本ではないのだが、なぜこんなに時間がかかったのか。

 おそらく、インタビューに基づいた記事をご本人の語りかけ口調で再構成した文体が、わたしの好みに合わなかったのだろう。その構成は冒頭で断り書きがなされていたが、どうしてもところどころで、ご本人と錯覚しそうになっては踏みとどまることがあった。



 アップル創業者のスティーブ・ジョブズが懇意にしていたすし職人、佐久間氏へのインタビュー記事である。奇しくも氏にとって大きな節目であるはずだった2011年春に日本で東日本大震災が起こり、おそらくはそういった状況の変化が遠因になったのだろうが、氏が予定していた新たな計画が実現を目前にしながら終了してしまった。そのころ、病と闘っていたスティーブ・ジョブズが、氏を案じて温かい申し出をしてくれたという。
 その話が実現されることはなかったが、ジョブズが亡くなってほんの二日後に、彼が足繁く通った佐久間氏の店もまた、閉店の日を迎えた。

 インタビューはその後まもなく、絶妙なタイミングでおこなわれたものだった。発表されて反響を呼んだのち、細部を掘り起こして書籍化となったようである。

 シリコンバレーの黎明期にスタンフォード大に近い場所で店を開いた佐久間氏の店は、インターネット関連企業のバブルに乗って安定した客足を得ることができたが、有名人だからと特別扱いすることもなく客は客として接した氏の人柄がかえって功を奏したか、IT企業ほかさまざまな分野での人脈にも恵まれた。円高で日本からの仕入れに苦労し、質のよくないものを無理に使って通常の味が出せないならばとメニューを工夫や削減しながらも、実直に店を守りつづけた。

 ジョブズの人物像やIT産業の話として、ファンも面白く読めるかと思うが、日本の食文化の海外進出の話として読んでも、楽しめると感じた。
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2016年08月16日

姉・米原万里 思い出は食欲と共に - 井上ユリ

 米原万里さんのエッセイは何冊も読んだ。名作「旅行者の朝食」や、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は、なかでもよく覚えている。そして語学や通訳という仕事にもあこがれていたわたしは、作家として名をはせる以前の米原氏が通訳として寄稿していた雑誌類などでも、文章を拝見していたと思う。

 亡くなってしまったことが、惜しまれてならない。もっともっと多くのことを見て、食べて、それらを文章にしていただきたかった。



 本書はチェコでの幼少期をともに過ごし、同じことを経験し、帰国後に同じような悩みを乗り越えたいわば精神的な「同志」である妹「井上ユリ」氏の手による、姉と自分、そして家族の話だ。没後もなお変わらずに姉を慕う多くのファンたちへの思いがあふれている。

 著者のユリ氏によれば、知らない土地や初めて接する文化にも好奇心で果敢に突きすすんでいく印象をいだかれがちな姉であったが、実は慣れていないものには臆病で、慎重で、時間をかけて歩んでいくタイプだったらしい。ことに食通として知られる万里氏の印象からは遠かったが、初めての食べ物には慎重だったという。

 幼いころに借家で便器(くみ取り式)の中に3回も落ちては親たちが全身をきれいに洗った話では、おそらく好奇心で便器の中を覗いているうちに落ちたのだろうがなぜ一度で懲りなかったのだろうかと、実妹の軽快な筆遣いには遠慮がない。また食いしん坊の自分をうまくいいくるめてわずかなおやつと引き換えにその週の小遣いを巻き上げた姉の話、いかに姉が自分のエッセイで話を脚色しているか、あるいは記憶違いをしているかなど、ファンには新鮮な暴露話も綴られている。

 晩年と呼ぶには若すぎたが、万里氏が亡くなる以前の数年間に鎌倉でお住まいだった通称「ペレストロイカ御殿」は、どれほど素晴らしかったことだろう。通訳の仕事が急に増えて、英語ほど幅広い通訳人材が望めないロシア語の分野では、万里氏の売れっ子ぶりは類がなく、数年間で鎌倉に家を持つまでの蓄えが溜まったとは、本書にも記載されている。

 本が好きで、書くことが好きで、作家になる夢をいだいてそれを実現させた万里氏が、自分の力で若くして得た家。どれほど思い入れがあり、素晴らしい家であっただろうかと、出かけたこともないその地に、思いをはせている。
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2016年02月07日

ミラノ 朝のバールで - 宮本 映子

 十歳の誕生日に姉から贈られたイタリアの写真集。少女は毎日それを眺めては、一方通行であることを承知で、あこがれの著者に日々の出来事を書きつづった。そして一年も過ぎようかというころ、少女のもとに届いた一枚の葉書。そのころから少女の思いは、まっすぐにイタリアに向かっていた。



 本書は、イタリアでのウェイトレス募集を知り若くして日本を飛び出した女性のエッセイ集だ。現地男性との運命の出会いと結婚、そしして二児を出産し、現在もイタリアのミラノに暮らす著者。飾らない人柄と自然体の文章、そしてみずみずしい感性が、いたるところにあふれる。

 冒頭の「父の言葉」において、わたしはすでに、心をぐいとわしづかみにされた。あとは夢中でページを繰った。

 小学四年生のとき「箸のそんな端っこを持って食べる映子は、たぶん遠くへお嫁に行くんじゃろう」と、父親に声をかけられたそうだ。そんなことが現実にならないようにと心から祈りつつも、気づくと箸の端っこを握っている自分がいた。そして海を渡ってミラノに暮らす現在も、たまに食べる和食で同じことに気づく。だが父母のもとを離れても、とても平凡な気持ちで日々を送っている、そういう文章だった。

 産後のうつや、幼いころからの持病など、けして順風満帆だったわけではない異国での暮らし。だが子供たちや周囲の人々、夫の家族など、多くの人に囲まれた暮らしの描写にはつねに明るさがある。読んでいる側であるわたしにも、太陽が降り注いでいるような感覚と風を感じた。

 あとがきで正式に明かされるが、冒頭で紹介された写真家N氏とは、西川治氏である。
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2014年01月14日

御馳走帖 - 内田百

 著者の内田百閧ノついては、これまでまとまった形では、作品に触れずにいた。怪談などのテーマ別短編集ではもちろん目にしているが、著者単独の本としては、買って読んだ記憶がなかった。



 今回こうして手にとったのは、近所の書店にて、秋の食欲にちなんだ名前の棚があり、本書の名前が御馳走帖であったため、一緒に並べられていたためと思われる。実際には食べ物の話があるといっても著者の変人奇人ぶりをあますところなく発揮したエッセイであり、昭和前半を中心とした食べ物について資料価値が高いとは、いえないかもしれない。また、仮名遣いも漢字の表記も現代のものとは異なるため、雰囲気に慣れるまでなかなかページが進まなかった。

 とにかく、愛すべき素晴らしい変人である。人が会いに来ようにも、客があってもよい日時を普段から設けていたり、予定外の場所で食事を出されては自分の予定が狂うからと、午後遅くに人の家を訪れても、食事が出される気配を感じただけで無理やり辞す。自分の食事は何時に何を出せと家人に強く命じ、出前が少しでも遅れれば必ず小言をいうようにと申しつける。そうこうするうちに自分の時計が壊れたが、普段から厳しくいっているのだから蕎麦屋が来た時間が昼であると、考える始末。蕎麦屋もたいへんである。

 十代のころまで実家が裕福だったため、成人後に不自由することになっても、金の使い方が常人とは異なる。錬金術と称して金策に走るのだが、あくせく小銭を借りてくるのではなく、あるとき払いの約束をとりつけたり、出版社が厚意で絶版を復刻してくれるなどの機会にたすけられる。昼食は蕎麦の出前と決めていて、馴染みの車夫と目が合えば歩ける距離すら人力車、さらにはまとまった金を前借りして宴席を設けるなど、なにやらお殿様的な生き方だ。

 同席した人物を適当に「甘木」という名前で表現することが非常に多いが、その理由はP.102以降に説明される。本の中に何回の甘木が出てきても、同じ人物とは思わないほうが無難である。

 いたずら好きの人であったようで、猪の肉が送られてきて日替わりで客を招くことになった際には(P.244以降)…
「猪の肉は戦争前に二三度、外から送つて貰つたことがあるので初めてではないが、今度は肉のかたまりに添へて、毛の生えた猪の足頸が同じ箱に入れてある。気味が悪いから、この足頸でだれかを撫でてやらうと思つた」
 さすがに冗談かと思ったが、(P.246)…
「猪の肉はうまいもので、気味の悪い所なぞないのだが、お客の中に初めてだと云ふのもゐて、箸を出す前に少し嫌な顔をした。始める前にみんなに一通り毛の生えた足頸を握らしたから、その手ざはりが利いたかもしれない」

 この部分でも直後に触れられているが、P.377でも、鹿肉を大量にもらった際の詳細が語られる。人を招くことになり「言葉の姿をととのへるには馬を添へた方がいい」と(つまり「馬鹿」という言葉にする)、馬肉を買いに出かけたそうだ。洒落心のためには買い物の労も厭わず。

 とても魅力的な変人である。
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2013年10月13日

安部公房とわたし - 山口果林

 安部公房はわたしにとって思い出深い作家だ。戯曲「友達」は高校のとき先輩らが演じ、わたしは新人として裏方にいた。砂の女は忘れようにも忘れられない強烈なストーリー展開。そして、タイトルからして奇怪な、箱男。強烈な個性をお持ちの作家だった。

 だが、人物像としては、何も知らなかった。いつお亡くなりになったのかも含め、記憶にない。



 山口果林は、大好きな女優のひとりだ。聡明な雰囲気、どんな役柄でもこなす芸達者なところ、そして、当時はそんな言葉はなかったかもしれないが、ときおりテレビのクイズ番組などでうかがえる「意外に"天然"なのか」の印象。

 彼女がこうして、エッセイの著者として目の前に現れてくるまで、安部公房と長く恋愛関係にあったことは知らなかったし、氏の死亡前に最後の救急車の搬送元になったのが自宅だったためマスコミに追われたことも知らなかった。海外の旅先で日本人観光客が「あの作家の愛人」とひそひそ話をしているのが聞こえたというのだから、相当に騒がれたのだろう。だがご本人も書いている通り、仕事そのものが激減したという事実はなかったそうで、それまでの信頼の積み重ねが、厚い人間関係にむすびついていたのだろう。

 著者を女優として考えるとき、なぜか思い出すドラマのひとつが、宮部みゆき原作の「火車」だった。そのドラマでは、原作とは異なる弁護士像を設定しており著者はその弁護士役だったのだが、設定変更のためなのか役に乗り気でないのか、あまり輝いている印象がなかった。山口果林を出しておいてこの扱いかと制作者側に対して不満に思ったのだが、いまにして思えば上記スキャンダルまもなくのころの撮影であり、著者はしばらくのあいだ精神的に疲れて完全自殺マニュアルを愛読していたほど、気力をなくしていた時期に重なるらしい。

 名演技をしても人の心に残るが、なにやら薄っぺらいという印象までもが記憶され、記録されていく。それが演出や設定のせいではなく本人の気力によるものだった可能性もあることが、二十年近く経ってから世に出てくる。女優というのは、ある意味ですさまじい職業だ。時間軸に沿ったフィルムに目をこらせば、いつでも過去がそこにある。

 さて、本書である。

 まずは、しばらく会えずにいた安部公房が退院し山口果林の自宅を訪れたところから。氏の家族から具体的な治療状況や症状を聞かされる立場になかったため、食事をさせて薬を飲ませることくらいしか念頭になかったが、やがて事態が深刻であることに気づき、氏の家族を介して救急車を呼ばせる。このとき複数の不運が重なり、著者はその後に何度も、自分で直接すぐに救急手配していれば、少なくとも死期は異なったのではと自問する。

 いったん、氏の死去の場面から、大学時代の出会いへと移り、話は自分の幼少期(歴史ある日本橋の書店の娘であり茅場町育ち)から大学までの日々を語る。そしてふたたび、安部公房との日々、亡くなるまでにもどって、没後もつづる。

 二十年を節目に、多くを考えることができるようになった女優。自分で書かなければ正式な場面からは埋もれてしまっている日々を、描いておくことにした心境の変化。それはとつぜんではなく、少しずつ、いろいろなきっかけが積み重なったもので、最終的には二十年かかった。

 最後に、安部公房とふたりでサスペンス小説の共同執筆を試みたこと(賞金目当てに)、ファミコンでドラクエ3の発売に合わせ量販店で並んだことなど、意外におもしろい面も描かれていることを、付記しておく。

 これからも彼女を見つづけていきたい。女優としても、文筆家としても、がんばっていただきたい。
posted by mikimarche at 16:05| Comment(0) | エッセイ