2022年04月14日

穏やかな死に医療はいらない - 萬田緑平

かつて群馬県の病院で若手外科医として活躍、その後に緩和ケアの診療所に勤め、現在は自身が診療所を運営している萬田医師の著。



 がんであると告知され治療を受けても、たすかる見込みのない人もいる。若くて体力がある人ならば強い抗がん剤の使用で体力が奪われても克服できる場合があるが、ある程度の年齢で、治療の初期に効果がなければ、そこが方向転換を検討するたいせつなチャンス。つらい抗がん剤に苦しむよりも、残る日々を心安らかに生きる選択肢があることを、事例とともに説いていく。
 むろん、医療行為を全否定しているわけではなく、ご本人が何を選ぶかをたいせつにしようという意味である。

 仮に抗がん剤でがんを克服しても、その後の暮らしを生き抜く体力が残されていないならば、身の回りのことが自分でできるかどうかといった生活の質は下がってしまう。適切な時期に、受けるのは最低限の医療だけにする決意をする。自分の人生を少しずつ終わりにしていく準備期間にすることができたら、それがよいのではという内容だ。あくまでご本人と家族に選ばせる。

 必要に応じて訪問看護や家族のサポートを得つつ、自宅や慣れた場所で残された日々を気楽に過ごすことは可能で、だいそれた準備も要らないのだと、事例を説明する。

 そういえば近年、自宅で静かに死期を迎えさせたいと決めていても、本人が苦しみだしたときに家族の心が揺れて、とっさに救急車を呼んでしまうといった話が聞かれる。
 呼ばれた以上は、救急車は病院を探して医療行為をしてもらわなければならないが、苦しそうだったからつい呼んでしまったけれど呼んだのは間違いだったと、家族と救急隊員のあいだでもめてしまう場合があるのだそうだ。以前に新聞でそう読んだ記憶があるし、本書にもそういったご家族の話が書かれていた。

 わたしはまだ、身近な高齢者が病院で死んだ例を知らない。

 父は自宅で突然死だった。義父もどうやらそうだった(同居していた義母が認知症で最後の状況がさからなかったが、おそらく普通に病死だったと思われる)。そして数十年前だが、母方の祖母はずっと患ってから自宅で死んだ。親戚一同が間際に祖母宅に出かけ、わたしも握手などしてお別れした。

 本書を読み、そうか、最近は家で死ぬことのほうが難しいのかもしれないと感じた。仮に本人と同居家族が自宅で看取る心構えをしていても、しばらくぶりに顔を見に来た親戚たちが「こんなに痩せていてどうする、点滴してもらわないと、病院に行かないと」と騒ぐ事例もあるらしい。聞いたことでもあり、本書にもそれが出てくる。
 そしてちょっとした不調の折に病院に出かけ、仮にそのまま入院になれば、体力が落ちたり認知能力に問題が生じて、ますます周囲が病院を勧めてしまう結果にもつながりかねないようだ。

 わたしは、何か大きな病気になることがあれば、病気の名前と、それば直接の死に至るのかどうかの説明はしてもらいたい。家族にもそう告げておこうと思う。
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2019年09月22日

こころ傷んでたえがたき日に - 上原隆

 書籍のタイトルと、収録されているという内容にクローン病のことや、柴又の女子大生殺害事件のご両親が出てくると聞いていたため、以前から読んでみたいと思っていた。それ以上のことは何も知識がないまま、割引価格でセールされているのを見つけ、電子書籍をダウンロードしたのだが…



 実はあとがきを見るまで、どういった本なのかがわからずにいた。首を傾げながら「なぜこのタイトル」、「いったいどういう構成の本か」、「わけがわからない」と思いながら、ページをすすめていった。

 本書のタイトルについては、石川啄木「一握の砂」所収の詩にある「こころ傷みてたへがたき日に」から来ていることが、目次の前に書かれていたのだが、そのあとはいきなり22編の話になる。

 おそらく最初の一編が、それ以降の話に存在する聞き手と話し手という構成ではなく、妻がいかにして自分との暮らしを捨てたかという一人称の話であったことで、よけいに混乱したのかもしれない。その文章の最後に括弧書きで、送られてきたノートを再構成して載せたという著者の言葉があったのみだ。
 さらに、これは著者のせいというわけでもないだろうが、書籍の宣伝として「感動する」という強調がなされていたことにも違和感があった。この一話目では感動を呼び起こしそうにないが、いったいこれから何がはじまるのか、と。

 その後は、現実と脚色を混ぜた文学の世界なのかと思ったが、意外にも実在している人物名や、具体的な団体名も出てくる。話した相手の言葉に基づいての文章構成だが、どの程度の裏付けをとって書いているのかまでは、わたしには判断できない。

 ひどいストレスの職場環境にいた女性が退職して過去をふり返った話(あなた何様?)や、離婚後に父親が子供たちを育てている話(父親と息子たち)、突然のクローン病でいったんは普通に食事を摂ることもできない生活になった男性と支えてくれた母親の話(僕のお守り)など、いろいろな人の人生をつづる。全体としては高齢者の孤独や、ホームレス、介護問題、家庭内の虐待など、社会における弱者的な視点からの話が多い。

 とても興味深いと思ったのは「先生」という一編だ。教師経験者の老婦人が、ホームレスとなっていた40代の男性と知り合い、ちょっとした経緯から家に招き入れ、風呂などを提供しているうち数年以上の同居生活になっているという。家事を手伝ってもらうなどはしているようだが、なかなかない話で、おもしろいと思った。

 あとがきまで読んでようやく、雑誌「正論」に100回連載した記事から選んだ22本をまとめたということがわかった。全体のまとまりのなさのように思ったのは、ひとつには書かれた年代が違うといったこともあるのだろう。

 それにしても、情報提供者や取材相手について、人物特定を困難にさせる脚色がどの程度まではいっているのか、あるいはまったくないのかといった、文章を書く姿勢についての描写は、なかったように思う。ノンフィクションと呼んでいいのかどうかは、わたしには判断がつかない。

 読んでよかったかと聞かれれば、悪くはなかったように思うものの、宣伝の仕方と書籍タイトルは、わたしの感覚とはちょっと合わないとだけ、書かせていただこう。
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2019年08月22日

なぜ繁栄している商店街は1%しかないのか - 辻井啓作

 商店街のコンサルティング業務を経験した著者による、書名の意味する通りの内容「なぜ1%しかないのか」をつづった本。どうすればよくなるという教科書的な啓発ではなく、うまくいきそうでもどこに落とし穴があるか、どういう要素や存在がよくない結果に結びつくかが、事例をもとに紹介されている。



 起業に関心がある人が参考程度に読む分にはおもしろいかもしれないが、本気で商店街をどうにかしたいと思っている当事者が読むと、希望の持てる内容とは、なっていない。とくに本の最後で、よかれあしかれ商店街の組合そのものが活性化を阻む存在になりかねない危険性が指摘されていることから、へたをすれば腹を立ててしまうかもしれない。

 前半では、商店街への自治体からの補助金問題が何度か出てくる。
 経済的な発展を遂げることこそが商店街の内部(商店たち)にしても地元にしてもよいことに違いないのだが、役所は補助金を出す立場上、相手の経済状態の向上を目的とすることはできないため、あくまで建前として、地域社会の発展や地元の人びとのための場所作りというものを想定しているとしてきた。
 だが時代が下り、担当者が変わったり、字義通りに受けとめる流れができてくると、話が違ってくる。役所側としても商店街側としても、商店街の採算よりも補助金をうまく回らせるためのイベント案を出しては実行するようになり、肝心の商店街の利益がおろそかになることもある、とのこと。

 また、商店街としてはほとんど寂れているような場所に、家賃の安さを魅力として若い起業家が店を出し、それが当たったときにも、悲劇が起こる場合がある。その店の周辺が活性化して家賃が上がり、数年後には賃貸契約を更新することが(その地元を流行らせた商店にとってさえ)難しくなる事例もあるそうだ。するといったんはできかけた人の流れが止まり、衰退へと逆戻りすることもある。

 うまくいく例があるとすればだが、すべてを総合的に見る立場の人間(タウンマネージャー)を雇い、運営側や地元のニーズを考えた上での商店街構成が必要となる。ただしその場合も、いきなり鳴り物入りでこの人が仕切りますと紹介するのではなく、地元に長い人などの協力をこぎ着けてからにしないと反発も起きやすいとのこと。

 著者自身は、最近は商店街などの包括的な相談には乗っておらず、個々の商店のプランニングをしているそうである。現在その立場であるからこそ書けたのかもしれないが、すでに存在している商店街の活性化というのは、かなり難しい仕事なのだろうと、実感させられた。
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2019年06月22日

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学 - 松永和紀

 先日なぜかAmazonの電子書籍で光文社新書が半額になっている例が多く見られたので、以前から気になっていた本をダウンロードしておいた、そのうちの一冊。



 わたしは食品に関心があり、長く通販をしているせいか、テレビ番組で「○○が効く」やら「○○で痩せる」などの特集があるたびに、その商品がまたたく間にネットから消えて行くのを見ては憤慨した。よく覚えているのは本書にも詳しく書かれているTBS系列の「白いんげん豆」で、これは豆はもちろん、豆を使った製品である白餡の素までもがネットから消えた。さらにはこの番組のせいで、放送後に重い体調不良に陥った視聴者もいた。

 バナナも、ココアも、寒天も、何度も何度も同じような品切れ狂想曲を奏でた。

 あるときのことだ。また何かが売り切れて、わたしは自分の運営していたサイトで「ばかみたいだ」と書いたことがある。すると、わたしが何に怒っているのかを気にかけず、ある会員さんが「店で見たのでいったん買って帰ったほかに夫に車を運転してもらって、ふたりで買いにもどった」と、嬉しそうに返信してきたことがあった。テレビで放送されたものは、とりあえず買わなければ気が済まないのだそうだ。ちなみに当時でおそらく60過ぎのご婦人だった。典型的なミーハーですからとご本人は軽く書いていらしたが、わたしはかなり驚いたものだった。

 本書は、なぜそういった根拠なきいい加減な情報がメディアで流されるのか、そしてそれらが強く否定されることもなく、責任の所在がいい加減なままで何度もくり返されるのかといった発信側の構造の問題(話題になるネタをとにかく売りつける)、そしていちいちメディアに対抗したり素人に説明するのも面倒だと、表に立つことが少ない学者や専門家の存在(誤りを実質的に放置してしまっている)を、語っていく。

 真剣に打ち消そうという努力がないために、○○が危ない、○○は体にいいといった第一報ばかりが人の心に残りやすくなるだけなく、何度も話題が再燃しやすい悪循環がそこにある。

 わたしもまた、メディアに不信感や不満をいだくことが多々ある。
 たとえば子宮頸がんワクチンの問題だ。副作用で深刻な症状になっている少女がいるのかいないのか(原因はほんとうにワクチンなのか)と関心を持っていた時期のことだが、厚生労働省が発表したデータに、信州大学の調査でワクチンと症状の因果関係が否定できない事例があったとの報道がなされた(2016年3月ころ)。わたしは「おや、そうだったのか、ほんとうに因果関係があるのか?」と驚いたが、その約5か月後(2016年8月)に、毎日新聞は、その信州大学のデータに捏造が疑われるという話があると、文中でさらりと書いた。実にさらっとである。これは、同じくらいの熱心さで書かなければ意味がないことではないかと、わたしは憤った。

 本書では、こうしたメディアや、専門家たち、そして受け手側である一般人が気をつけるべき点について書いている。10年以上前の本ではあるが、状況は変化していないので、これから読まれる方にもおすすめしたい。

 なお、わたしも大いに気になっているトランス脂肪酸の話題が出てきた。トランス脂肪酸が体によいというわけではないが、ことさらに何度も話題になるのは、トランス脂肪酸が多く含まれるマーガリンやショートニングが規制されることで、利害関係が生まれやすいからとのこと。バターを売りたいと思う国、パーム油を売りたいと思う国など、世の中にはそれぞれ事情があるのだ。なるほど。
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2019年02月25日

特殊清掃 - 特掃隊長

 このところ思うところあり、ゴミ屋敷や片付けに関心を持っている。本書のタイトルを見てそういう本であろうと予想し、電子書籍版で読んでみた。著者はプロとして片付けをなさっているらしく、ブログで好評だった記事を抜粋の上で掲載した本だという。



 実のところ、ゴミ屋敷のような話はほとんどなくて、多くは事情で人が亡くなった家の片付け(人体の残留液や血液の除去と清掃を含む)であった。それはそれで好きなテーマであるので、読みつづけた。
 怖がらせようという意図でも、一般人はしらないことだろうから知識を与えようという書き方でもなく、ただひたすら作業をこなしながら、著者は自分の頭に浮かんだことをつづっていく。読む側も、頭が下がるなどのありきたりな言葉が浮かぶよりも、まずそのよどみない文字の流れをただひたすら目で追う。
 誰かの日常が急に終わって、その生活の最後の場を片付ける人の日常が、つづられている。それをまた日常の流れの中で誰かが読む。この流れは永遠につづく。川と同じで、はじまりも終わりもなく、大きな水に溶けこんだ無数のしずくがあり、それが永遠につづいていく。

 ときに自嘲的にご自分を表現したり、「おでん(前後編)」のように、読み物としてはらはらしてしまうような場面もあるなど、文体が読みやすいというだけではなく独特の軽快なリズムが心地よく、夢中で読み終えた。

 長い本ではない。だが読み終えてみて、何人分かの時間を経験したような軽い疲れと、洗ってもらったようなすっきりした思いが残った。
posted by mikimarche at 23:05| Comment(0) | 実用(暮らし)