がんであると告知され治療を受けても、たすかる見込みのない人もいる。若くて体力がある人ならば強い抗がん剤の使用で体力が奪われても克服できる場合があるが、ある程度の年齢で、治療の初期に効果がなければ、そこが方向転換を検討するたいせつなチャンス。つらい抗がん剤に苦しむよりも、残る日々を心安らかに生きる選択肢があることを、事例とともに説いていく。
むろん、医療行為を全否定しているわけではなく、ご本人が何を選ぶかをたいせつにしようという意味である。
仮に抗がん剤でがんを克服しても、その後の暮らしを生き抜く体力が残されていないならば、身の回りのことが自分でできるかどうかといった生活の質は下がってしまう。適切な時期に、受けるのは最低限の医療だけにする決意をする。自分の人生を少しずつ終わりにしていく準備期間にすることができたら、それがよいのではという内容だ。あくまでご本人と家族に選ばせる。
必要に応じて訪問看護や家族のサポートを得つつ、自宅や慣れた場所で残された日々を気楽に過ごすことは可能で、だいそれた準備も要らないのだと、事例を説明する。
そういえば近年、自宅で静かに死期を迎えさせたいと決めていても、本人が苦しみだしたときに家族の心が揺れて、とっさに救急車を呼んでしまうといった話が聞かれる。
呼ばれた以上は、救急車は病院を探して医療行為をしてもらわなければならないが、苦しそうだったからつい呼んでしまったけれど呼んだのは間違いだったと、家族と救急隊員のあいだでもめてしまう場合があるのだそうだ。以前に新聞でそう読んだ記憶があるし、本書にもそういったご家族の話が書かれていた。
わたしはまだ、身近な高齢者が病院で死んだ例を知らない。
父は自宅で突然死だった。義父もどうやらそうだった(同居していた義母が認知症で最後の状況がさからなかったが、おそらく普通に病死だったと思われる)。そして数十年前だが、母方の祖母はずっと患ってから自宅で死んだ。親戚一同が間際に祖母宅に出かけ、わたしも握手などしてお別れした。
本書を読み、そうか、最近は家で死ぬことのほうが難しいのかもしれないと感じた。仮に本人と同居家族が自宅で看取る心構えをしていても、しばらくぶりに顔を見に来た親戚たちが「こんなに痩せていてどうする、点滴してもらわないと、病院に行かないと」と騒ぐ事例もあるらしい。聞いたことでもあり、本書にもそれが出てくる。
そしてちょっとした不調の折に病院に出かけ、仮にそのまま入院になれば、体力が落ちたり認知能力に問題が生じて、ますます周囲が病院を勧めてしまう結果にもつながりかねないようだ。
わたしは、何か大きな病気になることがあれば、病気の名前と、それば直接の死に至るのかどうかの説明はしてもらいたい。家族にもそう告げておこうと思う。