本書は、被害者側ではおもに実父への取材、そして加害者側や当事者を知る人々への取材と裁判記録から、事件の奥にあるものを丹念に剥がすようにつづった記録である。
それぞれの少年に共通していたのは、家庭や学校に居場所がなかったこと。そして友情ではなく、ひとりで時間を潰すよりはましだからとの思いから、つねに誰かとつるんでいたこと。
それぞれの家族や家庭。学校での居心地の悪さやいじめ。そして非行事実の発覚で子供らの異変に気づくチャンスが何度かあっても、多くは高齢のボラティアに頼らざるを得ない保護観察制度の限界からチェック体制が形骸化し、実際にはほぼ誰も救われていかない現実。
誰それがそのときこうしていれば被害者が殺されずに済んだ、あるいは何かのきかっけがあれば、加害者らがそこまで暴力に走らなかったと言えるような、そんな単純な要素はどこにもない。
文中では仮名を多用しているとはいえ、やはり加害者側も含めて家庭の事情などががかなり記載されているため、以下をはしょって書くことを、お許しいただきたい。
事件現場を地元として育った被害者の父によればだが、親が外国人で見た目がハーフの子は川崎にめずらしくない。ちょっと体罰を受けた経験くらいでは、子供が人を殺すことはない。被害者、加害者の境遇も、川崎という土地も、何かとりたてて特別だったというのではなく、何か理由をつけて誰かを排除したいときの、いじめの口実に使われた要素が、それだったという。そうした運が悪いことが重なって、息子は命を奪われてしまった−−。
加害者個々人への恨みは強く抱いているものの、事件全体への思い、そして命を奪われたのがなぜご自分の息子さんだったのかについては運の悪さであったと、被害者父はそこに考えを落ち着けている。
最後まで読めば事情もわかるが、著者は被害者側の家族としては父親の取材しかできていない。それ以外は公判での発言などに基づき記載している。前半ではそれについて「なぜだろう」と首をかしげたのだが、読み進めていって、合点がいった。
多感な時期に子供が感じやすい疎外感、居場所のないつらさ、いじめなどに対し、すぐに効き目のある対策は存在しない。今後も子供たちが被害者または加害者になる事件も、残念ながら存在することだろう。
その「今後の悲劇」を、ひとつでも減らすのに役立つならば、曖昧で不正確な情報のまま事件を風化させせず、発生から数年後で関係者の傷をえぐる危険性はあるにせよ、冷静なまとめとして、本書のような存在は必要であると、わたしは考えている。