2008年05月03日

日本奥地紀行 - イザベラ・バード著 高梨健吉訳

 1878年(明治11年)の横浜に、ひとりのイギリス女性が船で到着した。

 持病の影響で控えめな青春時代を送ったスコットランド地方出身の著者イザベラ・バードは、医者のすすめにより20代でアメリカとカナダを訪れて旅行記を出版したのち、社会奉仕活動などを経てふたたび40代から転地療養を兼ねた旅行をはじめる。オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ諸島などに滞在。日本には47歳で到着し、東北や北海道をまわった旅行(本書)を終えたのち関西をまわった道中で、48歳を迎えたことになる。



 病気がちの一婦人による単身の旅行、しかも荷物運搬や案内人は必要に応じて雇った場合もあるが、原則として通訳兼随行者の伊藤青年以外には頼る者もない旅に出るという、その強い意志におどろいた。道路も鉄道も完備されておらず、人を乗せることには慣れていない日本の馬(多くは使役用)を利用した旅に出るには、思いきった年齢だとの思いがある。

 だが著者は、地方の村や僻村での不衛生さ(*1)、人々の不作法(*2)を嘆きながらも約三ヶ月の旅行を終えた。しかも最後の四週間は各地のアイヌの集落を訪ねながら北海道に滞在し、現代の日本人がよく知らずにいるアイヌ文化や言語(語彙)についても、細かくつづっている。

 随行者である伊藤青年は18歳で、面接時には紹介状もない状態だったが、三ヶ月のあいだにまたとない人材へと成長していく。著者の望みを察知し、有能で機敏に対応すると同時に、ずるがしこさや野心も持ち合わせた一癖ある存在でもある。

 指示を受けずとも、著者が興味を示すその村の戸数や人口を聞いてまわったり、えらい外国の先生に付いている通訳であると自分を誇示したい場合には正装をする。自分が行きたくない僻地には、やれ道が悪い、たいへんな道のりだからやめたほうがいいと、難癖をつけたりもする。なかなか味がある。この紀行の最後、北海道でふたりは別るが、その後はどうなったのだろうと検索をした。その後も通訳兼ガイドとして活躍したようである。

 だが、伊藤青年の存在が気になる人はいるようで、どうやら彼の存在をモチーフにした小説「イトウの恋」というものも、出ているのだそうだ。

 閑話休題。

 乳製品や肉をなかなか食べる機会がない著者に、伊藤は鶏を買ってきて宿屋にゆでるように手配する。だがその直後、鶏卵をとるためならばともかく、肉として食べられるのは哀れだと、飼い主が返金しやってくる、あるいは鶏が逃げてしまうなどの珍事も数回あった。道中の食べ物に関する苦労話は枚挙にいとまがない。

 旅の序盤で日光の金谷家(のちの日光金谷ホテル)に滞在し洋風の食事ができたころや、東北地方で洋食屋に遭遇したこと、そして旅のごく最後のほうで北海道の海の幸を食べられたことを除き、著者はほとんどの日々を嘆いてばかりだった。これは著者がわがままというよりは、当時の日本の僻村が、人をもてなすほどに余分な食料を持たなかったことにもよるだろう。

 あとがきによると著者はこのあと韓国やインド、ペルシャなどに旅をし、病院の建設などに携わったようである。60代でも日本を数回訪れている。旅の生涯を1904年に、72歳で終えた。

 とても長い本だが、読んでみるだけの価値はじゅうぶんにあった。

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(*1)不衛生さについて
 屋内や畳の蚤、人々の不衛生さからくる皮膚病の蔓延については、数え切れないほどの描写がある。著者は折りたたみ式の寝台(枠組みに布をつけたもの)を携行していた。

(*2)人々の不作法について
 外国人が珍しいとはいえ、集団で見物にくるなどは序の口で、安宿で就寝中に障子に穴を開けられたり、ふすまをすべて取りはらわれて見物されたことも一度や二度ではなかった。
posted by mikimarche at 20:25| Comment(0) | 実用(歴史・文化)
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