2013年07月17日

累犯障害者 - 山本譲司

 あれから数ヶ月。内容がつらくて重く、だが目を背けるべきではないとの思いもあり、長い中断をはさみつつ同著者の「獄窓記」を読み終えたのは今年にはいってからだった。

 そして本作は、書名からして、獄窓記でもっともつらかった部分が凝縮されているらしく感じられ、本来ならば読まずに済ませたかったが、やはり手にとってしまった。



 つらい部分とは、著者が刑務所にはいった体験ではもちろんない。そこで見たものだ。早期に福祉の手が届いていたらそもそも犯罪性は認められず刑罰の必要もなかった、したがって刑務所内で重症化することもなかった人々(知的障害、精神的な病を持つ)が、刑務所以外に居場所がないなどの理由で出所後まもなくに犯罪を重ねる。社会に溶けこめず、中にいることだけを考えるというものだ。彼らの多くには、縁故者や引受人がいないため仮釈放を認められることもなく、ひとつひとつは微罪であっても、満期まで勤めあげたのちまた刑法犯となる。それらが積み重なって、人生のうちほとんどを刑務所で暮らす人もいる。下関駅放火事件の犯人は軽度の知的障害で、74年(犯行時)の人生のうち約50年を刑務所内で過ごしていた。

 本書でとりあげる(知的/身体)障害者のからむ事件は、上記の下関を除外しても7件以上。レッサーパンダ帽の男(浅草の女子大生刺殺)、障害者ビジネス(宇都宮の誤認逮捕事件)ほか、不当な養子縁組や結婚で戸籍を利用される障害者たち、性的虐待の被害者に刻まれた深刻な情緒障害の事例、被害者・加害者ともにろうあ者の殺人事件、ろうあ者だけを狙ったろうあ者の暴力団などが描かれている。

 早めに福祉の手が届いていれば、ケアしてくれる人がいれば、彼らは犯罪の加害者にも被害者にもならずに済むのが実際のところだ。だが実際には、知的障害の申請をして認定を受ければ補助金が得られることも気づかず、その日その日を生きてしまう。悪い人間と出会えば言いなりになって、犯罪を疑われても自己弁護できず、やってもいない犯罪を認めてしまうことすらある。そして刑務所にはいり、居心地がよいと考える場合さえも。

 歯がゆい。読んでいてつらい。だが、ここで詳細を語る覚悟はないが、わたしは自分が「どこまで関われる人間なのか」に疑問を持っている。自分が見て見ぬふりをする側に立つ人間ではないか、誰かを哀れと思って街の募金箱に小銭を入れることはあるかもしれないが、実際の手は貸さない、足を使わず汗もかかない人間なのだろう、と思っている。その人たちを誰かに救ってもらいたいとだけ考えるのは、かえって恥ずかしいことなのでは、と…

 いつも、ここまで考えて、答えが出ない。本を読むだけでもいいのでは、それで何かを考えればいいのではと思っても、それでも、考えがまとまらない。

 最後に、この点をどうしても書いておきたい。わたしがまったく知らずにいた事実だ。

 P.198 以降で語られる手話のことだが、健常者が手話の本などで勉強する手話は、中途失聴者にならば通じることもあるが、それらは日本語をベースにしているのだという。いっぽう先天性の人々は、手だけでなく顔や上半身を中心とした動きの微妙なバランスで、コミュニケーションをとっているのだそうだ。前者は日本語の文字やスペリングを指で表現するような「文字をベースの」手話を混ぜて使うが、これがネイティブには通じにくく、本人たち同士ではまったく使わないという。

 さらに、P.243以降で語られることだが、日本の聾学校では手話を認めていないそうだ。口語と読唇術を強いている。本人たちには聞こえていないのに、それは発音がいい悪い、さあもう一回どうぞと、何度でも発音させるものらしい。そんなことに教育の多くの時間を割いた、本人たちに実りを感じさせない授業は、苦痛以外の何物でもないだろう。おそらく教える側に「少しでも健常者と音声による意思疎通ができたら、世の中に出て有利になる」という思いが強いのだろう。

 そんなことに多くの時間を割くのではなく、学内でのコミュニケーション手段を安定させた上で、もっと違う「学習」をしたらいいのではないだろうか。知的向上心は誰にでもあるはずだ。健常者と同じ社会で暮らすことだけが最終目標ではないはず。

 さまざまな、つらく大きな現実を前に、人はどうすべきなのか。わたしは今日も、麻痺してしまう。
posted by mikimarche at 16:25| Comment(0) | 実用(社会・事件)
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