雑踏に彼を置き去りにした父親は「根性さえあれば、運をつかんで出世できる」という無責任な言葉を投げかけたとされるが、実際に息子はたくましく生き延び、菓子職人そして料理人としての名声でパリの頂点に立った。政権が交代しても権力の座に居座った美食家タレーランに重用されたおかげでその名はヨーロッパ諸国にもとどろき、ロシアの宮廷やイギリスの王室に招かれて腕をふるった。
だが彼は金よりも名声よりもパリを愛した。現役からしりぞいても自分の存在した証が長くつづくことを望んで、後年は執筆活動に多くの時間と労力を費やすようになる。誘いを受けてもパリを離れたがらず、やがてコレラの蔓延したパリを嫌って周囲の人の足が遠のいても執筆をつづけ、体調を悪化させていった。体調不良の原因のひとつは、換気がじゅうぶんではなく熱源が木炭であった当時の厨房の環境に、長くひたりすぎたためと推測される。
娘に看とられての最期だったが、ある理由により娘は彼の生前の手紙類をほぼすべて処分した。墓の所在すら、長いこと人に知られないままだった。そのせいかどうか、料理界に与えた影響や残した書物に比較して、人物としてのアントナンが語り継がれることはさほどないように思う。
本名をマリー・アントワーヌ・カレームという。男性であるが、政治的判断力がない父親により、世の人々が王室に愛着や忠誠の心を持たない時期にマリー・アントワネットにちなんだ名前が付けられたためと言われる。本人は「アントナン」という名を好んで使っていた。
スラムの生まれでも独学で読み書きを学び、仕事のあいまに図書館に通って菓子や料理のみならず古代建築の本を読みあさった。彼の死後も百年近く残っていたものがあると言われるピエスモンテ(飴細工などを使った食品が原料の工芸菓子)の技術も、そうした勉強と努力の産物だろう。
文中には歴史的な日に彼が用意した料理のメニュー紹介があり、巻末にはレシピがまとめられている。
欲をいえばもう少し人物像を掘りさげてあればと思うが、日本語での類書がほとんどない状況なので、この本の存在は貴重と考える。