2013年03月11日

獄窓記 - 山本譲司

 秘書給与の流用詐欺事件で立件され、当時の世間の読みとは異なるまさかの実刑判決を受けた著者は、控訴期間中に生まれた息子のことや将来を考え、事件を長引かせてのちのちまで影響を引きずるよりも、控訴取り下げを選ぶ。



 黒羽刑務所に収監された著者は、心身の障害などによって、自力で身の回りのことがこなせない人々の軽微な労務作業風景を見守る介助の係となる。生産性が目的ではなく、何かを作業させねばならないという、いわば時間つぶしの作業を見守るほか、着替えや食事の介助、汚物にまみれている受刑者の世話など、一般社会なら給与も休憩もあるはずの介護を、日夜を問わずこなすことになる。

 ここで忘れてはいけないのは、受刑者の世話をしながら、自らもまた同時に受刑者であるということだ。著者を頼りにする受刑者も多いいっぽうで、彼を受刑者として厳しく律する看守もいる。

 本書では、後半に辻元清美議員の錯綜した言い訳劇に悪者として引き合いに出されてたいへん迷惑した(妻を通じて弁護士と相談もした)件に、大きく筆を割いているいっぽうで、ほんとうなら避けて通れないはずの「ほかの同疑惑の人たちは実刑判決を受けるどころかうやむやになっているのに自分は服役した」という思いは、かなり曖昧というのか、きれいに文章をまとめすぎているように思う。無理もないかもしれないが、何を書いてもいまさらどうのと言い訳に聞こえるし、印象が悪くなるばかりだろう。まして、上述の辻本議員の件でマスコミが動き、ふたたびクローズアップされたことで、仮釈放が少し遅れた(著者が見た書類によれば2ヶ月)というのは大きな事実だ。不満を言っても、自分の服役した歴史自体が消えるわけではない。そのことにあとからどうこう触れるのは、読者的にはおもしろいかもしれないが、著者として得はなにひとつない。

 黒羽刑務所には、軽微な犯罪で収監されている人も多いそうだ。だが受刑者がそれまでの軋轢や心の病などが原因で家族等に見放されていれば、支援や引き取り手がないために満期出所までとどまることもある。全国どこの刑務所も受刑者があふれていて、看守は増えず、更正の手伝いはおろか規則遵守を徹底するのが精一杯という。人情味のある看守もいるが、人が増えればつねに一触即発の危険性が高まる。そしてやっと満期で出ても。温かい目で見られることがないならば、再犯でさらに収容率が高まる。悪循環だ。

 刑務所は人の目が届かない場所であり、かつ、世の中の人々の懲罰意識が高ければ高いほど、刑務所に入れてしまえ(そこで自分たちの存在する日常からは切り離される)と考えがちであるため、刑務所内の人権意識は低い。憲法が定める人権と、刑務所を定めた監獄法(著者が収監されていた当時の法律)では、かなり隔たりがあった。

 出所して、著者が本書「獄窓記」を出版し話題になってきたころ、世間では名古屋の看守らによる暴行事件が表沙汰になったこともあり、人権の意識が高まっていた。講演活動などを通じて意見を発表した著者の活動は時の流れと一致し、やがて2006年、監獄法は受刑者処遇法へと変わった。

 現在著者は、文筆や講演活動などをおこなっており、政治活動はしていない。

 認知症や心身の障害がある人々が、軽微な犯罪をおこなったとしても、身元を保証し生活をサポートする人間、もしくはそれを事件になりようがない(病気により刑事責任がない)と立証してくれる人間がいなければ、最後には刑務所で悪化の一途をたどらざるを得ない事例は、たしかに多いだろう。そして本人たち(自分が何の罪を犯し、その結果いまどこにいるのかも、ぼんやりとしかわからなくなってしまった人たち)は、どこに行くという気力も体力もない。あまりにつらい現実だ。

 だが「つらい現実」などという常套句は、あまりに浅くて、自分で自分にいらだつ。

 精神病院も、一般の病院も、福祉や介護の施設も、どこもみんな手一杯だ。では家族や縁者が生活の支援をしろ、付き添って暮らせと言われたら、みんな音を上げる。少しでも楽になりたくて、自分の近くから、自分の日常から切り離してしまいたくて、それが施設や病院であっても、刑務所であっても、そこの人たちと一緒にいてもらいたいと、放り出す。その人たちの気持ちもよくわかる。わたしもいくつか、つらい事例を知っているためだ。

 深い、とても深い、社会の闇。

 以前に読んだ「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」という本によれば、イタリアは閉鎖型の精神病棟を廃止し、現在は一般の人々と同じように自立性のあるオープンな施設で患者らの共同生活が営まれているとのことだったが、これを現在の日本に導入することはかなり難しい。よほど支援サービスの充実や双方(患者と世間一般)へのカウンセリングが浸透していないならば、人は自分の日常と精神障害者を切り離しておきたいと考えてしまいがちだ。

 塀の向こうと、塀のこちらがわ。あちらが闇であるならば照らさねばと思う自分と、光の側にいたいと願う自分。考えはじめると何もまとまらない。
posted by mikimarche at 23:25| Comment(0) | 実用(社会・事件)
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