2019年04月28日

セントル ザ・ベーカリーの食パンとサンドイッチ - 牛尾則明

 銀座の店の行列を何度か見たことがあり、並ぶ勇気がないままに現在にいたる食パンの店「セントル ザ・ベーカリー」だが、2018年晩秋に青山にも持ち帰り専門店ができたとのこと。食事を提供しないせいか銀座店ほどの行列はないらしいので、ぜひ出かけたいと思っていたところに、本書に遭遇した。



 角食パン(国産小麦使用)、プルマンブレッド(北米産小麦使用)の配合、そして図解付きでこね方を解説する。このふたつは湯種を使うが、イギリス食パンは中種製法。
 また、店には出ていないがレーズンブレッドほか、ライ麦、くるみ、ショコラなど各種のアレンジ食パンの配合がつづく。最終章ではサンドイッチ、そして食パンとともに食べるスープやピクルスなどの作り方も。

 角食パンとプルマンは、小麦の種類と水分量が違うのみで、そのほか材料や手順はまったく同じ。

 手ごねパンに興味がある方は、楽しめるはずの一冊。
 食パン専門店なので、食パン風のアレンジパンの配合がいくつか書かれているが、全体的に少ない。サンドイッチやサイドメニューに関心がなくパン全般のレシピを多めに期待している人には、あまり向いていない。

 さて、ちょっと個人的に驚いたのは、角食とプルマンの糖分の多さだ。これは標準的な量(おそらく焼き上がり重量は450g前後?)だが、砂糖を前日仕込みの湯種も含めて20g使っている。わたしは食パンなら10gか12g程度で焼くが、それでもそこそこ自然な甘味を感じるし、自分のそのグラム数は、自家製の食パンとして標準だと思っている。
 世の中の市販食パンが甘いと感じることがあるが、ロールパン用の生地ならまだしも、食パンでこのグラム数がもし業界標準であるなら、菓子パンなどはどれだけ使っているのかと、ちょっと興味がある。

 さて、近いうちにこちらのお店のパンを買って、食べてみるとしよう。
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2019年04月21日

翻訳地獄へようこそ - 宮脇孝雄

 英語や翻訳、とりわけイギリスの歴史や文化に関心のある方なら文句なしに楽しめる一冊。また、文章の合間に紹介される書籍が面白そうなものばかりで、これを読みながらいったい何冊Amazonで「ほしいものリストに入れる」を押したことだろう。



 先にほめておいてこう書くのもなんだが、全体から見て最初の2割程度は、実はつかみどころがない。どうせ振り落とされる読者がいるなら最初にまず多めに誘いこんでおこうと、手探りしていたような印象を受ける。誤訳とはどういった面で多く生じるのか、こういう単語をこう解釈してしまうからつまづくといった、やや初級編のような話が多いことにとまどった。
 あれれ、この本、話題だとどこかで聞いたよなぁ…これはおもしろくなるのかと、考えはじめたあたりからテンポが上がった。多くを誘いこむよりも、冒頭から小難しく書いておいてくれたら発奮して食いつく読者がいると思う。読みつづけていてよかった。

 著者はイギリスの話題に造詣が深いようで、アメリカの作品を事例にとるよりもイギリス作品や、参考としてオックスフォードの英英辞書類の話題が多く出てくる。言葉をたんに訳すのではなく、その背景を知るための努力をいとわないことが翻訳には不可欠であると、文章で読み手を引きつけながらさまざまな参考書籍を紹介。

 ドアを押して開けるのがあたりまえの国に住んでいる人は、逆の文化圏の小説を訳すときに「入室」、「退室」すら間違えてしまいかねない。ナースは現代の文章なら看護師だが昔の文章なら子守や家庭教師。イギリスの中流以上の家庭では普通の夕食時間が遅めであることを考慮しないと、あたかも夕食のあとの夜食であかのように勘違いして訳す危険性も生じる−−そういった事例を紹介しながら、技術的な面(読み手にとってのリズムと情報を頭に入れる順番を損ねないように、できるだけ語順を活かして訳す)も解説。

 しばらくのあいだ、本書に出てきた本たちを眺めることで、読書の楽しみに浸れそうだ。
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2019年04月09日

逃げろツチノコ - 山本素石

 昭和後期に懸賞金騒ぎでもてはやされ、一部自治体の村おこし、町おこしでも話題になったツチノコ。その流行の先駆けとなる活動をしてきた著者は、1960年代から10年以上の長きにわたって同好の士(構成員はおもに中年男性)らと、ノータリンクラブという名でツチノコを追跡した。
 目撃例を聞けば駆けつけ、地元の協力が得られる場合は出現場所に数日以上もとどまって各種の工夫(罠をしかける、燻してみるなど)を凝らしては出現を待った。
 はたから見れば金も時間もかかっている活動だが、それぞれの参加者には職業や趣味があり、あくまで「出てきてくれれば本望だが、見つからない場合は現地で釣りでもしよう、あるいはあれをしよう、これをしよう」といった、心の余裕がある人たちばかりだ。だからこそ長くつづいたのだろう。
 


 全国的に、ごく一部の県を除いては伝承や目撃例があるツチノコ。地域によって呼び名は違えど、特徴には共通する部分も多く、つい昭和前半のころまでの具体的な目撃例が各地にあることを思えば、絶滅してしまった何らかの生きものがいたのではないかと、そんな風に思えてくる。

 たとえば、以前にどこかで読んだのだが、ニホンオオカミは野生での最後の目撃例がある10年前まで、上野動物園に展示物として飼育されていたという話があるそうだ。絶滅するなどと思ってもいなかったから飼育をやめたのではないだろうか。
 図鑑や本に記載されずに一部の人だけが知っている生きものはいつの世にも存在するが、それがたまたまツチノコだったのではないだろうか。有名になるころには絶滅に瀕していた可能性は、無下に否定できない。

 著者は活動にひと区切りを付けるころ、世の中のバカ騒ぎ(懸賞金など)や、その流れで自分を知った人物からみょうな話を持ちかけられた件を通じて、ツチノコへの思いを新たにした。いてくれたらありがたいが、人間にはつかまらずに暮らせと、そう考えるにいたったことが、本書のタイトルになっている。

 全体的に、語り口は軽妙。現代の目から見ると昭和のオヤジ臭が強いかと思える場所もあるが、慣れてしまえばそれも味がある。

 ツチノコの目撃談をご本人たちが存命のうちに聞きとりできた時代の本(初版は1973年)であり、たいへん面白く読めた。わたしは電子書籍で読んだが(Amazon Kindle Unlimitedでは本日現在無料)、ソフトカバーでも出版されている。
posted by mikimarche at 20:50| Comment(0) | 実用(その他)